僕の虚像

 半年前から鏡に僕が映らない。
 息をひそめるように静かな、部屋の片隅に置かれている三面鏡は暗澹と、いっさいの歪みがなくたたずまっていた。向き合った僕は、自分が誰にも見えていないいつもどおりの違和感を覚えた。はじめから誰もいない部屋だから、それは錯覚だった。ぼけた目を何度か丹念に拭って、僕はもう一度古ぼけた鏡をのぞき見た。本棚、冷房、蛍光灯。左右逆の虚像の部屋は僕を取り巻く環境と現象そっくりで、あまりに綺麗に空虚が再現されていた。あまりに綺麗に空虚が再現されすぎて、僕という存在だけを貫通していた。まるで選びぬいたようなオカルト。現実主義者の僕は皮肉にも、今日も嘘のような現実を迎えなければならなかった。
「あら、起きていたの?」
 唐突に襖が開けられ、寝室から彼女が姿をあらわした。寝ぼけまなこと寝間着に彼女はおおわれていて、まじり気のない透明のような雰囲気を醸し出していた。彼女には僕が見えているようだった。何も変わらない。鏡から解放されて、僕は少し笑うことができた。
「ああ、おはよう。目が覚めたの?」
「何回もため息をつく音が聞こえたの」
「ごめん、ついてたか。起こしちゃった?」
「罰として朝ご飯をつくりなさい。卵は濃い味で」
「もう少し待ってくれる? いま立て込んでるんだ」
「わたしの食事のほうが大事だとおもいます。朝のエネルギー源は重要なのよ」
「とりあえず急ぎます」
「大好きよ」
「ありがとう」
 朝が来ればいつも繰り返すようなやり取り。僕はこの時間の彼女と空気が好きだった。互いに向き合うでもなく、別行動を取りながらたわいもなく反復されるそれは、間違いなく僕たちを繋いでいた。けれど、僕と違って彼女はくっきりと間違った鏡に映っていた。僕はそれが切なかった。外では雨が降っていた。薄暗がりに、彼女の存在は目に染みた。
 僕のありがとうを聞いたきり、鏡の奥で、彼女は黙って何かを探しているようだった。三本指でおさえられた手首を見て、それは腕時計だろうと見当をつけた。半年前に僕が贈った腕時計。シンプルな色彩とデザインが目を引いて、彼女へと買ったものだった。彼女は肌身離さず持ち歩いてくれるのに、寝る前にところかまわず外すから、いつもないと言って探している。僕は立て込むほどのたいした用事もなかったから、彼女にならって鏡の奥で何かを探すように動いてみた。けれどやはり、僕は鏡に入り込むことができなかった。絶望はなく、倦怠感だけが身体中に反響していた。やがて彼女は腕時計を見つけて、当然のように左右逆にそれを嵌めた。そして満足そうに頷いた。細い針が鈍く光った。僕の目に刺さった。僕は目を閉じると、黙って彼女の足跡を聴いていた。それは何も言わずに、五秒もしないうちに、ダイニングルームへ移動してしまったようだった。
 目を開けて、僕はもう一度確認するように鏡をのぞき見た。肌寒くて暗澹とした、空虚の部屋がそこにある。無造作に詰められた本たちが、落ちてきそうにまばらだった。鏡の奥は、音のない虚像にすぎなかった。僕はそこにいなかった。僕という存在をすり抜けて、僕の後ろの蛍光灯が映っている。まるで、偶然にも僕がせかいから見落とされてしまったようだった。何かの間違いだった。よく見れば、煙を食べるようにいびつに感じるはずのことだった。半年前から鏡に僕が映らない。けれど、彼女はそれに気づかずに、ありふれた生活をしている。だから僕たちは生きてゆけた。だから僕は悲しかった。